2008年1月3日木曜日

地域力という言葉が持つ2つめの意味

■ 日本の地域力を言葉から考える

最近、ニッポンの地域力という本を読みました。

まずは「常識」を疑ってみよう、と始まり、「地域間格差は存在しない」「子どもの数は減っていない」などといった人目を引くようなキャッチコピーにつながっていきます。最近の本の売り方というのは、ある程度意外性を持たないと売れないためか、奇を衒ったようなタイトルやコピーであふれ返っています

これは、マーケティングのなせる業なのだと思いますが、最近はテクニックとして映ってしまい、ちょっとうるさく感じることもあります。

と、前置きはこのあたりにして、この地域力という言葉、ここ数年で大流行です。地域力だけではないのですが、最近、「○○力」という造語が多くなった気がします。これまでは用法として「力」が付かなかったような単語に「力」が付き、新鮮な響きを持たせています。この地域力もその一つです。それ以外にも、たとえば「教育力」「自分力」「農村力」「親力」・・・と揚げるとキリがないですが、「鈍感力」なんていうのもありましたね。


■ 力が示すもう一つの隠れた意味

ただ、この「○○力」という言葉、新しさを演出するために多様されているのは間違いないと思うのですが、最近きがついたのは、このような言葉が生み出される背景には「○○力」の「○○」の部分の力が弱くなってきていることがあるのではないかということです。

たとえば、教育力

最近、ゆとり教育の失敗が叫ばれ(実際に失敗したかどうかの結論を導かずに騒ぎすぎているきらいがありますが)、そこで登場したのが「教育力」。教員の指導力だけでなく、地域や家庭環境も含めた広い意味での力をさしています。ただ、これは、教育という分野が非常に弱くなったことと裏返しになっているとは言えないでしょうか。

自分力も同様ですね。自分力を高める・・・というコピーもちらほら見かけますが、これも自分の能力を磨いていかないと、という危機感の表れ。農村力にしても、日本の農業の弱さと表裏一体であり、親力も同様のことが言えます。

つまり、その分野について「なんとかしていかないと・・・」という危機感が「○○力」という言葉を生み出している、そんな風に思えてくるのです。


■ 10年後の地域力は?

で、本題は「地域力

地方分権だとか地方の時代だと言われつづけて数十年がたち、それでもなお、東京一極集中は留まる所を知りません。最近ではむしろ一極集中が加速しているとまで言われています。補助金や交付金でしか事業ができない都道府県をはじめとする自治体と、その補助金にぶら下がる関連団体や利害関係業界。自立できない状況の自治体がほとんどである中、民間企業であれば倒産にあたる「財政再建団体」に陥るところも出てきました。一部の団体、たとえば最近では大阪府などが民間では考えられない会計処理の方法で会計上の赤字を上手に見えなくして、とりあえず急場をしのいでいたりしますが、数年後の財政破綻はおそらく目に見えています。

そのような危機的状況が「地域力」という言葉を生み出し、行政だけに頼らない新しい地域活性化の姿を模索し始めている。そんなように映ります。ですから、この「地域力」という言葉は、いわゆるお役所としての公共団体にはふさわしくないのでしょう。住民が主体となった地域での活動やNPOの活躍にこそ最もふさわしい言葉なのだと思います。

10年後に「地域力」という言葉が生き残っているかどうかは、それぞれの地域の「地域力」にかかっているのかもしれません。